[amazonjs asin=”B009S9ZL5S” locale=”JP” title=”文藝春秋 2012年 12月号 雑誌”]
久しぶりに文芸春秋を読んでいます。
日本人と中国人「宿命の対決」というところで、1970年11月号の対談の引用がなされていました。
日本人の本質を見るような思いがします。
私はこのところ空海(弘法大師)に熱中しておって、なかなかおもしろい。
かれが遣唐使に随行する留学生として入唐するのは九世紀のはじめですから、じつに古い話ですが、かれは中国の合理主義にはなんの関心も示さず、最初から真言密教を学ぼうとした。密教は仏教でさえない。釈迦を教祖としていない。インド土俗のバラモン教で、それが、唐に来ている。
密教というのは、宇宙の内部の秘密を思想化したもので、だから中国人からみれば、目でみえる山川草木からかけ離れた、思想だけの世界ですから、体質にあわなかったのか、なかば廃っていた。ところが、空海からみれば非常に新鮮であったので、それをごっそりもってかえってきた。ところが、ここでおもしろいことに、中国やインドにおける密教は、カッチリと体系化されたものでなく、大きさはあるが多分に流れた存在です。それが空海という日本人の頭を通すと、抜き差しならぬほどにカッチリとしたものになる。議論を完璧なものにし、論理を構築して、一つ駒をぬくとガラガラ崩れるほどにカッチリしたものを作り上げたのです。それが日本の真言密教です。
そうですね。規模の大きさは望まない。小さな、たとえ、箱庭のようなものでも1分のゆるぎのないものにしたいという性癖が、日本人にはありますね
[amazonjs asin=”B009S9ZL5S” locale=”JP” title=”文藝春秋 2012年 12月号 雑誌”]
コメント